江戸時代の後期、水戸の城下町を出て北西へ1里半(約6キロ)ほどのところにある成沢村(水戸市成沢町)に、加倉井砂山の営む私塾 *1がありました。
砂山は自宅、屋敷を開放して中にいくつもの校舎をつくり、その1つの日新舎からいつしか日新塾と呼ばれるようになります。
「日新」とは中国の古典である『礼記』 *2にある言葉で
”人は学徳を修めて一日一日新しくならなければならない”
つまり、毎日努力して向上していくことが大切であるという意味です。
日新塾に学んだものは1000人を超え、校舎だけではなく寄宿舎まで用意し *3、先進的な教育方針、幅広い教育科目など、すべての面においてこれほど充実した私塾はあまり例がなく、北関東随一といってもよいものでした。
▲取り壊される前の日新塾母屋
当初の日新塾の建物は明治10年の火災で焼失し、その後再建されましたがこれも近年防火上の危険等から取り壊されました。